ガエリオ・ボードウィンという男:美しき既得権益

鉄血のオルフェンズ 

 第1話は最高の出来だった。泥臭い戦闘、残酷な世界の中で必死に生きる子どもたち、耐え忍んだ末に訪れる下克上的なカタルシス

死なねぇ!死んでたまるか!こんなところじゃ…終われねえ!

だろ?ミカ!

 というオルガのセリフに合わせてバルバドスが飛び出して一撃で勝負を決める場面は思わず息が止まった。残酷な世界の底辺に生まれた子どもたちが「ここではないどこか」を目指す物語。オルガや三日月達は犠牲を払いながらも、世界の残酷さに立ち向かい少しずつのし上がって世界を変えていくのだろうと予感した。だが正直この予感は大ハズレだった。主人公が辛い目に合うことはこのタイプの作品では珍しいことではない。多くの仲間が死ぬことだってよくあることだ。だが最終話までの間に、鉄血に対しては徐々に批判の声も高まった。脚本がクソ、一期が台無し、キャラクターの贔屓が酷い等々。これらの批判の一番根底にあったものは何だったのだろうか。

 

批判の原因

 様々な意見があるとは思うが、私は物語に全く「夢」がなかったことが不満を集めた原因だったのだと思う。悲しい結末であれ、フィクションの物語には必ず何らかの嘘を語ることが求められる。ストーリーの中に織り交ぜられた嘘こそが物語の核となる夢であり、人はその夢を見るために物語を求めるのだ。そしてこと短時間で消費される週一度のアニメという媒体においては、現実に疲れた人間に希望や興奮、癒しを与えることが求められる。結末が悲劇であれ喜劇であれ、現実を忘れられるような物語が求められているのだ。ところが鉄血の世界のルールは悲しいほどに残酷で、現実世界と変わりがなかった。当初子どもたちが生き抜き希望を見つけるのかと思わされた物語は、回が進むにつれ過酷さを増した。そして徐々に視聴者は、この世界の根底には「富める者はますます豊かに。貧しい者はさらに貧しく」というルールがあることを突きつけられる。

休みも終わる日曜にそんな現実を叩きつけられて平然としていられる人は、よほどの勝ち組か無頓着だけだ。夢を与えない物語は苦しい、それが序盤は希望を与えるかのようなフリをしていれば尚更だ。

 

美しき既得権益

 例えば鉄火団とは真逆の生まれであるガエリオ・ボードウィンを例にとって考えてみたい。ギャラルホルンセブンスターズの家に生まれ何不自由なく育った彼はまさに鉄血の世界における富裕層の頂点といえるだろう。その彼のアニメ一期における最も印象的なシーンが、親友マクギリス・ファリドとの対決だ。マクギリスは、ガエリオ自身とカルタそして阿頼耶識の施術を受けたアインが、単にマクギリスの理想のために利用されていたにすぎなかったことを明かし、ガエリオはマクギリスとの絶望的な一騎打ちを行う。

 しかしこの人生最大の怒りと絶望の最中にあってなお、ガエリオは一言も自分に対する仕打ちへの恨みや怒りを表さない。

「マクギリス・・・お前はギャラルホルンを陥れる手段としてアインを・・・アインの誇りを!なんてことを!

たとえ親友でもそんな非道は許されるはずがない!」

ガエリオ・ボードウィンは何よりも最初にアインの誇りを利用したことに憤るのだ。己もまた幼い頃より親友と信じてきた者に手ひどく裏切られた時、まず自分以外のために怒ることは彼の善良さを何よりも表しているように思われる。そしてこの後、ガエリオはカルタのためにも憤るのだが、ここにも彼の育ちの良さが現れる。

「マクギリス!カルタはお前に恋焦がれていたんだぞ!

今際の際もお前の名前を呼んで!お前を想って!死んでいった!

妹だって!お前にならば信頼して任せられると!」

激しい怒りの中にあってもガエリオの言葉はあくまで美しい。「恋い焦がれる、今際の際、思って。」まるで夜会での貴族のような美しい言葉選びだ。そして口汚い罵りは一切ない。これらは彼の育ちの良さを裏付けるような、裏を返すなら彼が泥を啜って生きてきたマクギリスに敗れた理由が垣間見えるような言葉だ。

 こうして一方的な戦いはガエリオの死を以て幕を閉じ、アインもまた忌むべき存在として抹殺される。絶望的な幕切れだ。

 

 そして二期仮面の男ヴィダールとして行動していたガエリオは、マクギリスが勝利演説をしていた回線に割り込みガエリオ・ボードウィンとして名乗りをあげる。この場面はこの物語全体の残酷さを象徴するような場面だ。

 私の名はガエリオ・ボードウィン

セブンスターズの一員、ガルス・ボードウィンの息子!

ガエリオ・ボードウィンだ!ガエリオ・ボードウィンはここに宣言する。

逆賊マクギリス・ファリドを、討つと。

 これはある意味非常に残酷な宣言だ。持てる者たるガエリオは名乗りをあげるだけで、死ぬ気で多大な犠牲を払いクーデターをなしたマクギリスに対抗する旗頭たり得るのだから。これを見たガエリオの父親のリアクションもまた善良を絵に描いたような典型的なもの。豊かなものは心まで豊かだというのだろうか。

 この作品が批判されるのは結局この構造に問題が行き着くのだと思う。貧しいオルガらがのし上がるのかと思いきや次々に死ぬ。それも理不尽に。三日月は唯一の希望だったがそれでも貧しいものが強さを手に入れるためには、大きな代償を払わなければならない。結局彼は半身不随になり悪として死んだ。男娼となってまでのし上がろうとしたマクギリスも失墜し死んだ。そしてそのきっかけとなったのは名家の息子がただ名乗りを上げたことだった。そんなのはただの現実だ。富める者はさらに豊かに、豊かさゆえに心まで美しく。貧しく卑しい生まれの者は結局失墜する。相応しくないから。学もないから。たとえ現実の世界はそう言った過酷なルールで動いているとしても、そんな世界は間違っていると叫びのし上がっていく過程を描くことこそが物語だ。そして視聴者もそういった「物語」を望んでいただろう。