Produce x 101;友情・努力・そして敗北の物語「僕の人生に現れてくれてありがとう」

「ジニョク、僕の人生に現れてくれてありがとう」
「ウソク、ごめんな、そっちに行けなくて。一緒にいてやらなきゃいけないのに」
このやりとりにProduce x 101という番組の全てが集約されているように感じる。

 人間は残酷な生き物で、古代ローマの時代からずっと同じ見世物を好んでいる。人生を一瞬に賭けて闘う誰かを安全地帯から見守ること。ローマで剣闘士が死ぬまで殺しあったのを見つめていた市民も、甲子園でホームランを打たれ泣き崩れる投手をテレビの向こうから凝視する観客も、そして泣きながら課題曲を薄暗い練習室で繰り返し踊る練習生を訳知り顔で批評するProduce x 101の視聴者も。もちろんそのうちの一人である私も。ただ、現代人は困ったことに古代ローマの観客よりもさらに欲張りだ。我々は命を要求しない代わりに、物語を求める。熱闘甲子園が長く続いているのは人が野球の試合自体だけでなく、その背後にある個人個人の球児の物語を消費したいからであり、Produce x 101がステージ自体の何倍もの時間を練習風景に使うのも、ステージが生み出された過程にある物語を視聴者が求めているからだ。
 
 物語についてもう少し考えてみたい。改めて書くまでもないが、生み出されては消費される物語の核にあるのは常に人間同士の関係だ。一人で努力し勝利する姿はつまらない。少年ジャンプの有名な三つのコンセプトの一つ目が友情なのは偶然ではないのだ。友情なき、努力と勝利の物語はもはや物語にはなり得ない。Produce x 101という番組はこの現代人に刻み込まれた欲求を忠実に満たしてくれる、常に悲しいほどに忠実に。1話の登場場面から少しずつ積み重ねられていく友情の物語は、最終回に向かって絞り込まれ研ぎ澄まされ、最後に行くつかの短い言葉と涙とそして抱擁に結実する。
 
 そして視聴者が求めているのが物語である以上、この番組では自分を主人公、もしくは不可欠な脇役とする物語を描けたものが輝く。例えば全国大会で二度優勝したテコンドーと奨学生としての地位を捨てて、アイドルの夢を追い才能を見せつけたヨハンが一位となった事は、物語の勝利を象徴する結末だったと言えるだろう。様々な意見があるとは思うが、私はこの番組が作るグループのセンターはデビュー済のウソクではなく、いわば素人のヨハンでなければいけなかったと思うのだ。
 
 ただ物語があれば「輝ける」ということは残念ながら「デビューできる」という事は意味しない。その事実を突きつけられたのが、私が冒頭に挙げたジニョクだ。彼は既デビュー組として登場し、登場シーンではあたかも恐ろしい先輩のように描写されていた。しかしグループ評価のBOSSではヨハンのラッパーとしての成長を手助けし、寮でオラフのパジャマでヨハンのラップに乗る場面が映されるなど完全に良き先輩ポジションを確立した。そして彼の真骨頂となったのが次のポジション評価「亀甲船」だ。完全に力不足な年下メンバーたちを率いて無から有を生み出しステージを成功させた事、練習中にメンバーを叱り部屋を出て行った後に状況を打開するためどう考えても悪くない彼が最初に謝罪した事、未完成なステージを見せることこそが恥ずかしいことであるというプロフェッショナリズムに基づき最後まで絶対に手を抜かなかったこと。全てが彼こそが新グループのリーダーにふさわしいことを示すかのような物語展開であり、Xポジション一位として莫大なベネフィットを獲得した後に同じくボーカルポジションで1位を獲得したウソクと抱き合う姿はここからこの2人が本シーズン全体の核として歩んでいくことを約束するようなシーンだった。

「ジニョク 」の画像検索結果
 そして彼の快進撃の中でも一つの重要なシーンとしてあげたいのが、第三回順位発表式だ。これまで父親のような側面を中心に見せていた彼が、ウソクと隣同士で夫婦漫才と呼びたくなるような掛け合いを披露した事は、彼の重層的なキャラクターを示す上で非常に重要だったのではないだろうか。特に私が悶えたのは、5位が呼ばれた後に「順位が予想以上に上がりすぎていて逆にとても不安になってきた」と話すジニョクに対し、ウソクがニヤッと笑って「脱落もありうるよ」と返したのを聞いたジニョクが「あ、オッケー」と苦笑するところ。それから一位候補として二人が並んだ時に、ウソクが一旦繋いでいた手をパッと振りほどいたかと思ったら壇上に登るために立ち上がった時にはまたしっかりと手を繋げ直す下りだ。(最高なので見てください。)


 だがジニョクの快進撃は最後に思わぬ結末を迎える。最終順位発表式が始まり、だんだんと呼ばれていく順位とどう考えても足りない椅子の数。そして3位でスンウが呼ばれた時点で、ジニョクが脱落する可能性が限りなく高まった。この時点で呼ばれていない中にはヨハン、ウソク、ウンサン、ミンギュ、クジョンモがおり、累計票数で決まるX枠もほぼ不可能なことが明らかだったからだ。この瞬間に放送には映らなかったが、この瞬間ウソクが別れを悟ったかのようにジニョクに近づき手を両手で握って、気丈に自分の立ち位置に戻ろうとするジニョクの手を再度まですがるように離すまいとしていた光景は、番組中にはフォーカスされなかったがそこに確かに存在していた二人の絆を示していた。そして物語はクライマックスへと不可逆に進む。

「ウソク ジニョク 最終話」の画像検索結果

 

「ジニョク、僕の人生に現れてくれてありがとう。愛してる。」
「ウソク、ごめんな、そっちに行けなくて。一緒にいてやらなきゃいけないのに」

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 いつだってフィクションは現実が生み出す物語にはかなわない。当たり前だ。創作物とは違い、熱闘甲子園で作られる物語にもProduce x 101で生み出される物語にも人間の人生が丸まま乗っかっているのだから。テレビを消そうがツイッターを閉じようがあの時デビューできたウソクと出来なかったジニョクが全く異なる道を歩んでいく物語は続いていく。名前を呼ばれた彼らも、名前を呼ばれなかった彼らも、これからの一生の中で何度もあの日の夢を見て飛び起きるだろう。残念ながら101人の練習生のうち90人にとってはproduce x 101は友情、努力、そして敗北の物語だ。それでも彼らの物語を「消費」させてもらったさもしい観客のうちの一人として、参加した練習生全員の人生が愛と輝きに満ちたものになるように。あの日の夢など見ることもないくらいに、友情・努力・そしてもちろん勝利に溢れた人生を送れますようにと祈らせてもらいたい。人生を賭けた勝負のほんの一端を覗き見る機会を与えてくれてありがとう。

赤安とライバボのためならわたし死んでもいいわ:二人の魅力をただただ語る

私はライバボが好きだ。赤安が好きだ、沖安が好きだ。秀零が好きだ。二人を取り巻く関係性の全てが好きだ。

二人の魅力は何よりも、大きく分けて上記の4層からなる非常に重層的な関係性にある。この多層的な関係性により、どの層を主眼に物語を構築するとしても他の二次創作では不可能なほどの厚みを物語に与えることができる。まさに超長編国民的漫画の重要な登場人物同士だからこそ成し得た、唯一無二の強みと言って良いだろう。言い換えれば、この二人の特別さは二人の関係が形をどんどん変えながらもずっと紡がれ続けているところにある。バーボンとライとしての黒の組織への潜入時代。両者は組織の構成員らしく振舞うという演技と探り合いのうちに関係を構築する。次いでスコッチの死に関する誤解という両者の運命を決定的に転換する事件の発生とライのNOCバレにより事態は新たなフェーズへ。残酷な話だが、この事件の特異性こそが現在までの長きにわたって二人を最高の組み合わせにしていると言わざるをえない。

幼馴染であるスコッチのNOCバレ。追いつき説得を試みると一瞬の隙をついてのスコッチの自殺。そしてその引き金となったのはスコッチを必死で探し回っていたバーボンが階段を駆け上がる足音。しかし次の瞬間階段を駆け上がってきたバーボンに、ライは己が裏切り者を処刑したかのように嘯く。彼にはスコッチは自殺であったと告げることができたはずだし、むしろそうしたところで何一つデメリットはない。それなのにどうして彼は今に至るまでずっと真相を隠し続けているのか。そんなのバーボンに親友はお前が殺したってことを伝えたくないからに決まっているし、そんなのもはや愛以外での何物でもない。本当によく(基本)子供向けの探偵物の中でこんなにも薄暗くそれでいて美しい関係性を描けたものだと思う。余りにも完璧。

 

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そしてこのシナリオの何より凄いところは五感に訴えかけてくるリアリティを持っているところだ。おそらく晩秋の肌寒い雑居ビルの屋上。真っ暗な中に響くのはスコッチの荒い息のみ。そこからライの低音での説得が始まる。その鈍く柔らかい音しかない空間に突如聞こえて来る硬質な金属製の階段を上ってくる足音。ライの一瞬の油断とスコッチの諦念と覚悟が一気呵成に事態を急変させる。響き渡る一発の銃声。血と硝煙の匂いのなか黒づくめのの男が振替る。一連の流れが映像的にも情報量が非常に豊かで美しい。

そしてこの事件の後、両者の関係は一旦途絶し一人取り残されたバーボンは赤井への強い恨みを抱え決して彼の死を信じず必死に足取りを追い続ける。つまり沖矢&安室期の到来だ。そして降谷は遂に赤井秀一生存の事実にたどり着き、赤安期が開始。しかもこの二人は時と場所によって偽名をきっちり使い分けているので、カプ名だけで大体の年代と関係性、当時の組織等関連の情報がわかるのも整った福利厚生の一つだ。剣呑な雰囲気なの中任務に従事し時に身体だけを繋げてしまうライとバーボンは、愛し合う秀一と零になることが約束されている。愛し合う秀一と零の背後には同様に、降谷零の強い憎悪と観覧車の上命がけで拳を交えた過去が存在している。なんと甘美なことだろう。関係の方向性もそれ故かなり自由だ。ダークかつ大人な関係、喧嘩ップル、熱烈な片思い、甘い蜜月。どんな関係性でもパロディーや大幅な設定改変(彼らが恋愛関係にあること以外)を行わずに描くことができるのはまさに奇跡としか言いようがない。

これまで私は主にスポーツ漫画関連の高校生カップルを嗜んできたのだが、この場合当たり前ながら二人の現在の関係性やお互いの性格からどのようん傾向の二次創作が生み出されるかはだいたい決定される。定番の頼れる先輩と可愛い後輩、裏をかいての後輩による下克上、ライバル同士の喧嘩ップルなどなど。年を重ねた二人を書きたい場合は年齢改変として基本的に自分の妄想を綴ることとなる。勿論そんな中好みの二人を見つけるのが醍醐味でもあるのだが、やはり生み出せる作品の幅では圧倒的に赤安に軍配があがるのだ。

しかもこの二人基本的にパロディーいらず。媚薬等変なお薬を飲ませたければ組織の実験か任務、社交界への潜入もマフィアとの銃撃戦もお手の物、つかせたい職業があれば潜入先にしてしまえばいい。赤井のイギリス出身の過去と降谷の謎めいた子供時代を利用してパブリックスクール設定だって組もうと思えばいくらでも組めるし、海辺で出会っての一夏の恋の話だって余裕(パリ零というジャンルがあるのをご存知だろうか)。そう彼らの可能性はあまりにも幅広い。

もしこの二人の二次創作を読んだことがなく、この文章を読んでいただいたのなら是非一、二作品だけでも目を通していただきたい。間違いなく真理への開眼となるはずだ。

 

ガエリオ・ボードウィンという男:美しき既得権益

鉄血のオルフェンズ 

 第1話は最高の出来だった。泥臭い戦闘、残酷な世界の中で必死に生きる子どもたち、耐え忍んだ末に訪れる下克上的なカタルシス

死なねぇ!死んでたまるか!こんなところじゃ…終われねえ!

だろ?ミカ!

 というオルガのセリフに合わせてバルバドスが飛び出して一撃で勝負を決める場面は思わず息が止まった。残酷な世界の底辺に生まれた子どもたちが「ここではないどこか」を目指す物語。オルガや三日月達は犠牲を払いながらも、世界の残酷さに立ち向かい少しずつのし上がって世界を変えていくのだろうと予感した。だが正直この予感は大ハズレだった。主人公が辛い目に合うことはこのタイプの作品では珍しいことではない。多くの仲間が死ぬことだってよくあることだ。だが最終話までの間に、鉄血に対しては徐々に批判の声も高まった。脚本がクソ、一期が台無し、キャラクターの贔屓が酷い等々。これらの批判の一番根底にあったものは何だったのだろうか。

 

批判の原因

 様々な意見があるとは思うが、私は物語に全く「夢」がなかったことが不満を集めた原因だったのだと思う。悲しい結末であれ、フィクションの物語には必ず何らかの嘘を語ることが求められる。ストーリーの中に織り交ぜられた嘘こそが物語の核となる夢であり、人はその夢を見るために物語を求めるのだ。そしてこと短時間で消費される週一度のアニメという媒体においては、現実に疲れた人間に希望や興奮、癒しを与えることが求められる。結末が悲劇であれ喜劇であれ、現実を忘れられるような物語が求められているのだ。ところが鉄血の世界のルールは悲しいほどに残酷で、現実世界と変わりがなかった。当初子どもたちが生き抜き希望を見つけるのかと思わされた物語は、回が進むにつれ過酷さを増した。そして徐々に視聴者は、この世界の根底には「富める者はますます豊かに。貧しい者はさらに貧しく」というルールがあることを突きつけられる。

休みも終わる日曜にそんな現実を叩きつけられて平然としていられる人は、よほどの勝ち組か無頓着だけだ。夢を与えない物語は苦しい、それが序盤は希望を与えるかのようなフリをしていれば尚更だ。

 

美しき既得権益

 例えば鉄火団とは真逆の生まれであるガエリオ・ボードウィンを例にとって考えてみたい。ギャラルホルンセブンスターズの家に生まれ何不自由なく育った彼はまさに鉄血の世界における富裕層の頂点といえるだろう。その彼のアニメ一期における最も印象的なシーンが、親友マクギリス・ファリドとの対決だ。マクギリスは、ガエリオ自身とカルタそして阿頼耶識の施術を受けたアインが、単にマクギリスの理想のために利用されていたにすぎなかったことを明かし、ガエリオはマクギリスとの絶望的な一騎打ちを行う。

 しかしこの人生最大の怒りと絶望の最中にあってなお、ガエリオは一言も自分に対する仕打ちへの恨みや怒りを表さない。

「マクギリス・・・お前はギャラルホルンを陥れる手段としてアインを・・・アインの誇りを!なんてことを!

たとえ親友でもそんな非道は許されるはずがない!」

ガエリオ・ボードウィンは何よりも最初にアインの誇りを利用したことに憤るのだ。己もまた幼い頃より親友と信じてきた者に手ひどく裏切られた時、まず自分以外のために怒ることは彼の善良さを何よりも表しているように思われる。そしてこの後、ガエリオはカルタのためにも憤るのだが、ここにも彼の育ちの良さが現れる。

「マクギリス!カルタはお前に恋焦がれていたんだぞ!

今際の際もお前の名前を呼んで!お前を想って!死んでいった!

妹だって!お前にならば信頼して任せられると!」

激しい怒りの中にあってもガエリオの言葉はあくまで美しい。「恋い焦がれる、今際の際、思って。」まるで夜会での貴族のような美しい言葉選びだ。そして口汚い罵りは一切ない。これらは彼の育ちの良さを裏付けるような、裏を返すなら彼が泥を啜って生きてきたマクギリスに敗れた理由が垣間見えるような言葉だ。

 こうして一方的な戦いはガエリオの死を以て幕を閉じ、アインもまた忌むべき存在として抹殺される。絶望的な幕切れだ。

 

 そして二期仮面の男ヴィダールとして行動していたガエリオは、マクギリスが勝利演説をしていた回線に割り込みガエリオ・ボードウィンとして名乗りをあげる。この場面はこの物語全体の残酷さを象徴するような場面だ。

 私の名はガエリオ・ボードウィン

セブンスターズの一員、ガルス・ボードウィンの息子!

ガエリオ・ボードウィンだ!ガエリオ・ボードウィンはここに宣言する。

逆賊マクギリス・ファリドを、討つと。

 これはある意味非常に残酷な宣言だ。持てる者たるガエリオは名乗りをあげるだけで、死ぬ気で多大な犠牲を払いクーデターをなしたマクギリスに対抗する旗頭たり得るのだから。これを見たガエリオの父親のリアクションもまた善良を絵に描いたような典型的なもの。豊かなものは心まで豊かだというのだろうか。

 この作品が批判されるのは結局この構造に問題が行き着くのだと思う。貧しいオルガらがのし上がるのかと思いきや次々に死ぬ。それも理不尽に。三日月は唯一の希望だったがそれでも貧しいものが強さを手に入れるためには、大きな代償を払わなければならない。結局彼は半身不随になり悪として死んだ。男娼となってまでのし上がろうとしたマクギリスも失墜し死んだ。そしてそのきっかけとなったのは名家の息子がただ名乗りを上げたことだった。そんなのはただの現実だ。富める者はさらに豊かに、豊かさゆえに心まで美しく。貧しく卑しい生まれの者は結局失墜する。相応しくないから。学もないから。たとえ現実の世界はそう言った過酷なルールで動いているとしても、そんな世界は間違っていると叫びのし上がっていく過程を描くことこそが物語だ。そして視聴者もそういった「物語」を望んでいただろう。

 

 

人生まるまま真似するオタク:推しの経歴真似てたらエリート街道まっしぐら

 趣味の楽しみ方

 趣味の愛し方は人それぞれだ。例えば鉄道好きに撮り鉄乗り鉄などいろいろな種類があることはよく知られている。私の場合、趣味の一つに漫画やアニメ鑑賞があるのだが、私はおそらく一風変わったオタクだ。

 

 人生自体のトレース

 私は好きになったキャラクターの人生をとにかくトレースしようとする。推しと同じ生き方をすることが私の愛だ。もちろん漫画の多くは青春の一場面を切り取ったものなので、大学や社会人での進路は描かれないことが多いのだが、そこは可能な限り予想する。推しと同じ場所で同じ空気を吸って日常を共有することで、彼が何を考えてどう生きているのかを理解したいのだ。推しと同じ場所で日常生活を送ることで退屈な毎日も、発見と幸福に満ちた日々になるのだ。嫌なことがあったって推しにもこんな苦難があったのかと思えれば辛いことは一つもない。正直自分でもちょっと気持ち悪い。三次元の相手にやったらストーカーまっしぐらだったので、二次元をこよなく好むオタクに育って本当に良かった。

 

 赤司くんは難易度高い

 中学生時代にオタクとなった私にとって、模倣人生の最大のビッグイベントは大学進学だった。高校生の頃私は黒子のバスケ赤司征十郎くんの大ファンだった。あのちょっとクレージーなまでの苛烈さと苦悩。天帝の目とかいう訳わかんないチート能力に代表される圧倒的な実力。そのためまさに赤司くんにフォーリンラブしてしまった私自身の進路選択は、とりあえず彼の将来を妄想することから始まった。あまり考える余地もなかった。どう考えても赤司征十郎東京大学に進学する。別にそうと決まったわけではないのだけれど(今考えれば海外進学もあるのだし)、当時の私にはそれは確定した赤司くんの将来像だったのだ。ついでに今吉さんも好きだったのだが、悲しかな彼も東大に行きそうだった。やるしかない。そこから先は単純だ。とにかく私も東京大学に行かねばならない。幸運にも勉強は割と向いていたので努力した。辛いこともあったけれど赤司くんと同じ場所に行くためと思えば安いもの。模試だって赤司くんは一位だったに決まっていると思えば努力するしかない。一位は無理でも上位に入った。試験当日も、赤司くんもここで試験を受けたのか、休憩時間はやっぱり外を散歩したのか等々アホなことを考えていたので、全然緊張しなかった。そして私は無事合格した。

 因みに高校時代のコピーの最大の難関は部活だった。やはりキセキの世代の気持ちを味わうためには何が何でも全国大会に出ねばならぬ。やるしかない。そこでに行かなければ赤司くんと同じものは見えないのだ。結局、残念ながらバスケットボールという点まではさすがに真似られなかったのだが、私は無事にとある部での全国大会進出を果たした。

 

 推しを追って海外進出

 そして大学入学後私には新たな推しが出来た。

 赤井秀一と安室透だ。腐女子でもある私にとって赤井秀一と安室透のカプはまさに神が与えし至高の組み合わせだった。純黒が公開された時なんて自分に都合良すぎて夢なんじゃないかと思った。ただどう考えても安室くんも東大法卒だったので私は心の底から安堵した。自分はまだ推しと同じ空気を吸えているのだ。安室くんと同じと思うと、大して美味しくない食堂も三ツ星に感じるし、ボロボロの教室もここで安室くんも寒い思いしたのかなとか思えばまるで天国だ。しかし悲しかなここで私大変なことに気づいてしまった。赤井秀一が教育を受けたのは太平洋の反対側のアメリカだ。これは当時の私にとって割と絶望的な事実だった。推しカプの片方の生育環境を全く共有していないなんて由々しき事態だからだ。そこで私は決意した。そうだアメリカに行こう。どうにも赤井の通った大学の情報はなかったので、とにかく私は全米の有名大学を調べ上げた。雰囲気、難易度、人種比率、アファーマティブアクションの有無、卒業生の進路などなど。私はやるときはやる女なのだ。そして勝手に赤井さんの卒業大学を決めた私はそこへの留学を勝ち取った。留学先はとにかく萌えの宝庫だった。勉強はもちろんの事、赤井さんは間違いなく体も鍛えていただろうから私もジムにも通い健康な日々を送った。赤井さん、ありがとう。

 そしていざ職業選択。どのキャラかは秘密だが、私はまたも推しをトレースした。そして今も推しのおかげで人生まさに絶好調。ありがたい限りだ。なんというか意味がわからないレベルの行動力で正直我ながら気持ち悪い。

 

 性癖に感謝

 ここまでくると私の人生における一番の僥倖は、ヤクザ、ヤンキー、クズ等のキャラを好きにならなかったことだろう。正直私のトレース能力は異常だ。ヤクザが推しだったら今頃どこぞの鉄砲玉をやっていたかもしれないと思うと背筋が寒くなる。ビッチよりも一途な受けが好きなのもラッキー。それにいつもいつも頭がいいキャラを好きになったのもラッキーだった。自分の性癖に万歳三唱したいくらいの幸運だと思う。

 私は隠れオタクなのでこの事情をリアルで誰かに話すことは一生ない。ただ努力家、志が高いなど褒めちぎってくれる先輩、同輩、後輩の言葉を聞くたびに、私をここまで導いてくれた素晴らしい推しがいるということを少し伝えたくなってしまう。推しへの愛は私の人生の原動力だ。

そしてこの孤独で変態的な営みは案外ものすごく楽しい。

天才な推しを持つ方々、ぜひ試してみてほしい。

 

 

 

 

アインとガエリオ:絶望の中で萌える

物語に求めるもの

 人は物語に何を求めるのだろうか。悲劇、喜劇、風刺、教訓、様々な種類の数知れない物語がこれまで綴られてきたわけだが、源氏物語の時代から今日のラノベに至るまで一貫して物語が追ってきた役割は「夢の世界を見せること」だと言えるだろう。そして特に30分間の短い映像という気楽な形で消費可能なアニメには、辛い現実を生きる人間に少しの希望を提示するという役目がある。勉強に疲れて一休みしたいとき、くたくたに疲れた会社帰り、小さな画面の中に見える青春や希望に浸って心を休めた経験がある人は多いのではないか。しかし鉄血のオルフェンズは違う。登場人物はバンバン死ぬしときに死ぬより残酷な目にも遭う。ウザい敵は案外死なないしいい男はすぐに死んでしまう。それでも私はこの世界が好きだった。

夢のない物語

 ただ私がこの世界を好きで入られたのは、ひとえに私がこの世界における特権階級側を愛したからに過ぎない。そもそも私は大体の作品のおいて、主人公ではなく二番手やライバルを好きになる。ヴィクトルよりもユーリ、誠凛よりも海常と陽泉、烏野よりも青城。だから今回も既得権益であるギャラルホルン側のガエリオとアインを好きになった当初は、また推しが死ぬのかと絶望していた。ところがどっこい、この世界に夢はない。現実と同じく富める者はますます豊かに、貧しい者はますます貧しく。回を追うごとにこの世界のルールが見えてきた時は背筋が寒くなったほどの徹底っぷりだった。おそらく私が三日月とオルガを好きになっていたら、この作品を最後まで見るなんてことは到底無理だっただろう。

それでも萌える

 私はガエリオ・ボードウィンが大好きだ。ガエリオアイン・ダルトンとの関係性も大好きだ。彼らは私の主従萌え、というか貴族のお坊ちゃんと庶民(差別される側)萌の性癖にクリーンヒットなのだ。アインがガエリオを特務三佐と呼ぶのも愛しいし、アインが出自ゆえ差別された経験を話した時にガエリオがムッとするところなんて本当にグッとくる。

 でもこの二人の終着点もまた悲しかな、どうやっても悲劇だ。生育環境と生来の性格が合わさった結果、アインは盲信的で恩人であるクランク二尉の死に囚われたまま。クランク二尉自身もアインが自分の仇を討って死ぬことなんて望んでいなかったことはアインにもわかっていたはずなのに、彼は復讐から逃れられない。

二度の献身

 それでも、クランク二尉の死に囚われつつもなお、アインはガエリオのことを身を挺して二度救った。作中どうしてアインがガエリオをかばうシーンは二度も描かれたのだろうか。アインを阿頼耶識によりグレイズアインの一部とする残酷な展開の布石ならばこれは一度で良かったはずだ。初回はガエリオ有利のまま途中で邪魔が入って手打ちだって良かった。だからこそアインに二度もガエリオを救わせたことには意味があるのだろう。正直まだそれが何なのかははっきりとはわかっていない。二人の間の絆の強調か、三日月の強さの誇示か。ただアインがガエリオのために身を挺するキャラクターであるということははっきり間違いなく示された。

アインにとってのガエリオ

 ガエリオはアインにとって、クランク二尉以外で初めて自分を火星の出身ということで差別せず遇してくれた人。それもギャラルホルン中枢の貴族中の貴族なのに。そして自分の敵討ちにも理解を示し力を貸してくれた人、彼の言葉を借りれば立ち上がる足をくれた人でもある。

 このような経緯を踏まえれば彼がガエリオに好意を持つのは当然のことだ。しかしいくら大恩あるとは言っても、足をくれた人のために、盾となり自分が足を失ったアインの運命はあまりにも悲惨だ。持たざる者に徹底的に残酷な運命が訪れる鉄血の世界のルールゆえ、アインの悲劇は続く。アインはグレイズアインの一部とされ、足に加えて両腕も遂には名誉や尊厳も失ったのだ。

残酷な仕打ち

 そしてアイン・ダルトンという男は明朗快活で少し世間知らずなガエリオ・ボードウィンの運命を決定的に支配することになる。延命と機能回復のための阿頼耶識の施術は彼から両腕をも奪い、彼はコックピットの中でのみ生き合成音声で語る機械の一部となった。ここに至るまでのガエリオの葛藤、そしてアインの実情を知った時の彼の表情は筆舌に尽くしがたい。自分のために全てを失った者にそれでもまだ「自分と出会えたことで人生は幸運なものであった」と述べられたガエリオは一体どんな気分だったのだろう。ああ、そして機体の一部となったアインは、どうして初めてボードウィン特務三佐ではなく’ガエリオ’特務三佐と呼んだのだろう。もはや彼はアインではないというメッセージか。自我はある程度残った上でガエリオへの気持ちの変化を表しているのか。それとも理性が弱まったことでアインがそれまで心の中で読んでいた呼び方で呼んでいるのか。腐女子的には後二者を推したいところだが。

体は失おうとも

 そしてグレイズアインの敗北後、アインは今度は擬似阿頼耶識の部品として使われることになる。このシステムにおいて用いるのは普通の訓練を受けたこともないような人間の脳ではダメなのだ。なぜならこのシステムにおいてはパイロットに許されるのは標的指定等のみ。システムの能力を最大限発揮することを望むならば、戦闘は阿頼耶識手術を行った脳の持ち主に任せねばならない。それゆえこのシステムは諸刃の剣だ。普通の子供の脳をつないでも身体的負担を回避できることに変わりはないが、もともとパイロットとして熱心に訓練した下地があり、阿頼耶識に繋がれた後も強敵と渡り合ったアインの脳だからこそ強さを発揮できた。(私は勝手にアインとガエリオの間の絆も重要だったと思っている。)

 アインの脳を利用して0ダメージで阿頼耶識の力を得たガエリオについては、死者にムチ打つ行為であり、アインを単に道具として利用しているに過ぎず残酷であるという意見もある。しかし私はそうは思わない。ガエリオは戦闘をアインに委ねる時「さあ好きなように使え。俺の体をお前に明け渡す!」と叫んだ。元より持たざる者の運命が苛烈で残酷なのはこの鉄血の世界では当たり前の事。ガエリオに正義があったとは思わないし、彼とて既得権益の一部であり時に搾取者であったとは思う。それでも誰がなんと言おうとも彼らはずっと二人だったのだから。

 

 

愛と熱情:天才ユーリプリセツキーの物語

 

 

ユーリのプログラム

 各々の選手には物語があり、その物語の発露とも言えるのがフィギュアスケートにおいてはプログラムだ。そして選手個人の長いようで短い物語の中に、時にスケートの歴史という長い物語の中に、燦然と輝くプログラムが現れる。点数として記録に残るものもあれば、演技自体として記憶に残るものもある。両方を兼ね備えたものもあるだろう。羽生選手のニースの世界選手権でのロミオとジュリエットソチ五輪での浅田選手のラフマニノフ、そして平昌五輪でのSEIMEIなどそのようなプログラムは枚挙にいとまがない。

 YOIの世界においてもユーリ・プリセツキーのショート、フリー両プログラムは間違いなくこれらと同様に記録と記憶に残っただろう。特に世界歴代最高得点を叩き出したショートプログラムについて今回は考えてみたい。

 

アガペーという主題

 ショートプログラムは勇利と対になる「愛について;アガペー

 このプログラムはアガペーというテーマゆえに非常に表現面の難易度が高い。エロスとアガペーは対にされているが、同じ愛であってもエロスに比べてアガペーは圧倒的に表現しにくいと思う。なぜならばエロスは人から人への愛であり、おそらくほとんどすべての人が人生で経験する愛である。それに比べてアガペーは、神から人への分け隔てない愛。それを表現するのは人間には、特に子も妻も持たず、両親からの愛すらも与えられてきたか分からないようなユーリのような子供には極めて困難だろう。

 こう考えるとヴィクトルがユーリにアガペーを振り付けたことは一見無理難題に思われる。ただしヴィクトルはユーリに対し恐らく同郷の有望な後輩として好意を持っており、わざと何の意図もなく無理難題を課すとは考えにくい。ヴィクトルが与えた難題には何らかの意図があったのだろう。

 加えて、そもそもヴィクトルがもともと自分の来期用に振り付けていたのはErosだった。にもかかわらずユーリが彼を追ってきて温泉on ice の開催が急遽決まった時に、彼は既に二パターンの編曲を準備していた。アガペーの振り付けとて、あの短期間で一から作り上げたとは考えづらい。すなわちヴィクトルはユーリとの振り付けの約束を忘れてはおらず、もともとユーリに与えるためのプログラムとしてアガペーを構想していたのではないだろうか。

 そしてこのプログラムには、欲が前面に出過ぎてヴィクトルの面影を追いすぎているユーリに対するヴィクトルからの処方箋という意味もあったように思われる。ただし幸か不幸かヴィクトルはヤコフのようなコーチではないし、かなり冷たいところもあるので、別にユーリが課題を乗り越えられず潰れても全く罪悪感も責任も感じそうにないのだが。 

 

自分だけの美しさの重要性

 YOI世界においては個性というものが非常に重視されている。例えばこの世界でのいわば勝利の神であるLiving Legendヴィクトルが何より重視しているのが観客に与える驚きである。またオタベックに対するチェレスティーノコーチの

「オリジナリティとは何を持って生まれるかだけではない。 19歳のオタベックが今証明しようとしている」

と言うセリフもこの世界においてオリジナリティを築き上げることがいかに重要かを物語っている。この世界線においてはコピーは何があってもオリジナルにかなわないのだ。しかし温泉on iceで初めてアガペーを滑った時点では、ユーリはヴィクトルの振り付けをただ滑るといったレベルに終始しており、自分だけの演技といったものには程遠かったように思われる。

 だからこそユーリは独自の強さや個性を獲得せねばならず、今シーズン始めの時点では、リリアから期限付きの美しさである「プリマ」を個性として提示された。私はこのリリアがユーリと初めて対面する場面が大好きだ。「魂 売ったくらいで勝てんなら、この体ごといくらでもあんたにくれてやるよ」と言うセリフ。背景に流れるシンプルな音楽。どれを取っても完成された場面だと思う。

 

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 しかしユーリはそのプリマを全うするだけでは終わらない。プリマとしての彼の演技の完成系は、GPFのショートでのアガペーだろう。ヴィクトルを超える世界最高記録118.56を叩き出した演技は、死んでも勝つという気合いを表すような片手、片手、両手!というタノの連続を含みつつも、あくまで美しくまさに氷上のプリマにふさわしい演技だった。しかし迎えたフリーで彼はプリマという個性をかなぐり捨てて演技する。表情も必死だし「 豚に食わせる金メダルはねえ!」ってモノローグなんてまさにその象徴。しかしその演技を見たリリアは「プリマからは遠ざかったけれど、あなただけの新しい美しさに進化したわね」と涙を見せる。これは単なるコーチの贔屓目ではない。美しい妖精のような容姿とプリマとなるための繊細な身体表現に、彼本来の苛烈さや鬼気迫る勝負への気迫が加わったもの。それが彼が一年間の苦難の旅の果てに獲得した新しい個性だったのだろう。

 

愛を探す人

 しかしすでに栄冠を手にしたとはいえユーリは若干15歳。彼の旅路はまだまだこれからだ。そしてその旅路は栄光の道であると共に、愛を探す道でもあるのだろう。リリアはショートプログラムの演技を控えて「人は自分を支える愛を探している時にこそ輝くのです。」と語った。ユーリは祖父、ヤコフ、リリア、ヴィクトル、オタベック、勇利など多くの人との出会いを通じて、愛の入り口に今ようやく立った。アガペーは惜しみなく与えられる神の愛。決して人が到達することは叶わないけど、限りなく近づくことはできるはずだ。そして未だ愛の入り口にいる15歳の彼にはここからまだ計り知れない伸び代がある。彼の本当に素晴らしい才能とそれを支える努力に賛辞を送りたい。

 

 

 

偽物は本物に勝てるのか;Fateと黒子のバスケの世界のルール

模倣と個性、偽物と本物

 模倣と個性、偽物と本物の二項対立は多くの少年漫画やゲームが取り上げてきた不朽の熱いテーマだ。私はこの本物/偽物論が本当に大好きである。それは模倣と個性、本物と偽物の関係性の決定権は、その世界の神にあるからだ。

 例えば模倣の圧倒的個性への挑戦が描かれたと言える作品として『黒子のバスケ』がある。ご存知の通り、この世界に君臨するのは己にしか出来ない技という圧倒的個性を持ったキセキの世代だ。そしてこの世界においては多種多様な髪色にも象徴されるように、「強い個性=己にしか成し得ない事」があるものがキセキの世代なり無冠の五将なり高く評価される。

  この世界の中で異質だったのがキセキの世代の一員であった黄瀬涼太だ。彼の特徴は模倣である。見たプレイをすぐにコピーして自分のものとする事が出来るのが彼の最大の武器だ。しかし模倣能力が仇となり、彼は何をやってもすぐ出来てしまい飽きてしまうが故の退屈を味わっていた。転機となったのは、中学2年生。体育館で青峰のプレーを見た黄瀬は、初めて己が模倣できないものと出会い、彼を追って帝光バスケ部に入部する。彼は瞬く間に力をつけキセキの一人とされる。

 しかし先ほど述べた通り、黒子のバスケの世界においては圧倒的な個性こそが力だ。だからこそ黄瀬は真の個性を持つキセキの世代の技は模倣することができなかった。

 

憧れるのはもうやめる

 全てをひっくり返したのはインターハイでの海常対桐皇の一戦だ。この試合は私が黒子のバスケの中で最も好きな試合の一つだ。やはり主役校の登場しないキセキ同士の試合には、どちらが勝つかわからないというひりつく緊張感がある。特にこの海常対桐皇の試合では青峰と黄瀬の対比が明確な軸のもと描かれる。個人主義の桐皇で孤高を貫く青峰と、チームを重視する海常でチームの一員となった黄瀬。圧倒的個性の象徴である青峰と模倣にその価値を持つ黄瀬。そして仲間を得て本物を越えようとする黄瀬が圧倒的な才能の前に敗れるという残酷さ。完璧の一言だ。

 さて本物偽物の議論の焦点となるのは試合後半。不利な戦況の中、黄瀬はこれまで不可能とされてきた青峰の模倣を行うことを決意する。その際彼は

「あぁ、くっそ。やっぱめちゃくちゃかっけぇなぁ。

人には真似できない、唯一絶対のスタイル。この人に憧れて、俺はバスケを始めたんだ。

普通のプレーは見ればすぐにできるのに、この人のは何度やってもできなかった。けど、わかってたんだ、ほんとは、なぜできないか。

憧れてしまえば越えられない。

勝ちたいと思いつつ、心の底では負けてほしくないとねがうから……。

だから……憧れるのは、もう……やめる。 

と述べる。

 青峰は、ある種黄瀬にとっての神だったのだろう。彼は青峰のプレーを見てバスケ部に入り、毎日のように1on1を挑み、その全てに敗れた。そこには強烈な憧れや畏敬と、自分を退屈な毎日から救い出してくれたものへの感謝があったのではないか。だからこそ、黄瀬が初めてキセキの世代の技をコピーするのは青峰戦でなければならなかった。己の神を殺すことで初めて彼は、模倣を個性に偽物を本物と同格にまで押し上げるチャンスを掴んだのだ。

 

 黄瀬は結果試合には敗れるものの、青峰のパーフェクトコピーを行って彼と並び立つ存在となる。その後も黄瀬の躍進は続き、ウィンターカップ時点においては全てのキセキの技を模倣ししかもそれを組み合わせての運用を可能にした。

 偽物は圧倒的な「本物」には敵わない。でも模倣を突き詰めればそれは一つの真の個性となる。その個性によりなされたコピーは原典に追いつき得るし、様々な人の模倣を組み合わせれば所有主を凌駕することだって出来る。

 この「偽物も突き詰めれば本物となる」というのが黄瀬を通じて語られた黒子のバスケにおける本物/偽物論だ。

 

偽物が本物に敵わないなんて道理はない

 これと似て非なる理論を持つ世界がFateだ。

 Fateの世界観が明確に定めた一つの主題が偽物の肯定だ。その世界観を体現しているのが衛宮士郎だ。Fate/staynight UBWにおいての聖杯戦争終盤、かの世界史に名高い英雄王ギルガメッシュとの対戦を迎える。彼はありとあらゆる伝説の原典となった宝具を己の財宝庫から自在に取り出し行使できる、まさに本物中の本物だ。対する士郎は剣を構成するあらゆる要素を内包した固有結界「無限の剣製」で立ち向かう。その際彼がギルガメッシュに投げかけたセリフがこれだ。

驚くことじゃない、これらは全て偽物だ。

だがな、偽物が本物に敵わない道理なんてない。

お前が本物だというのなら、悉くを凌駕してその存在を叩き堕とそう。

いくぞ英雄王、武器の貯蔵は十分か?

 

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「贋作が本物に劣ると誰が決めたのか」これはFate世界で度々主題となる価値観であり、私自身も強く心に刻んでいる考え方だ。そもそもすべての原典を保有する英雄王ギルガメッシュに模倣に特化した士郎が勝つということ自体がこの価値観の証明と言えるだろう。

 黒子のバスケの世界において「偽物も突き詰めれば本物となる」が物語を通じ示された一方で、Fateにおいては「偽物は偽物のままで本物に勝利しうる」ということが語られた。

 

偽物本物論争

 ただ偽物/本物論争というのは考えるだけ不毛なのかもしれない。この世に偽物も本物もなくあるのはただ「もの」だけとも考えられるのだ。そもそも「本物」は誰かにそう規定され、それが大衆に受け入れられることで成立しているだけので根元的な違いは本当にあるのだろうか。とはいえ人はブランド品から志、人間自体についてまで常に真贋を判定したがる生き物だ。私自身も自分自身の将来の夢について偽物ではないかと悩んだ時期がある。

 だからこそ少年漫画は「偽物と本物」の二項対立をテーマとし続けるのだろう。「型破りになるためにはまずは型を身につけなければならない」というのはよく言われることだが真理だと思う。何者かになるためには誰しも模倣を通らねばならなず、それは当然恥ずべきことではない。そしていつか本物と対決する時が来たならば、その時こそが型を破る時だ。 そんな勝負の時に黄瀬や士郎の心意気はきっと背中を押してくれる。