偽物は本物に勝てるのか;Fateと黒子のバスケの世界のルール
模倣と個性、偽物と本物
模倣と個性、偽物と本物の二項対立は多くの少年漫画やゲームが取り上げてきた不朽の熱いテーマだ。私はこの本物/偽物論が本当に大好きである。それは模倣と個性、本物と偽物の関係性の決定権は、その世界の神にあるからだ。
例えば模倣の圧倒的個性への挑戦が描かれたと言える作品として『黒子のバスケ』がある。ご存知の通り、この世界に君臨するのは己にしか出来ない技という圧倒的個性を持ったキセキの世代だ。そしてこの世界においては多種多様な髪色にも象徴されるように、「強い個性=己にしか成し得ない事」があるものがキセキの世代なり無冠の五将なり高く評価される。
この世界の中で異質だったのがキセキの世代の一員であった黄瀬涼太だ。彼の特徴は模倣である。見たプレイをすぐにコピーして自分のものとする事が出来るのが彼の最大の武器だ。しかし模倣能力が仇となり、彼は何をやってもすぐ出来てしまい飽きてしまうが故の退屈を味わっていた。転機となったのは、中学2年生。体育館で青峰のプレーを見た黄瀬は、初めて己が模倣できないものと出会い、彼を追って帝光バスケ部に入部する。彼は瞬く間に力をつけキセキの一人とされる。
しかし先ほど述べた通り、黒子のバスケの世界においては圧倒的な個性こそが力だ。だからこそ黄瀬は真の個性を持つキセキの世代の技は模倣することができなかった。
憧れるのはもうやめる
全てをひっくり返したのはインターハイでの海常対桐皇の一戦だ。この試合は私が黒子のバスケの中で最も好きな試合の一つだ。やはり主役校の登場しないキセキ同士の試合には、どちらが勝つかわからないというひりつく緊張感がある。特にこの海常対桐皇の試合では青峰と黄瀬の対比が明確な軸のもと描かれる。個人主義の桐皇で孤高を貫く青峰と、チームを重視する海常でチームの一員となった黄瀬。圧倒的個性の象徴である青峰と模倣にその価値を持つ黄瀬。そして仲間を得て本物を越えようとする黄瀬が圧倒的な才能の前に敗れるという残酷さ。完璧の一言だ。
さて本物偽物の議論の焦点となるのは試合後半。不利な戦況の中、黄瀬はこれまで不可能とされてきた青峰の模倣を行うことを決意する。その際彼は
「あぁ、くっそ。やっぱめちゃくちゃかっけぇなぁ。
人には真似できない、唯一絶対のスタイル。この人に憧れて、俺はバスケを始めたんだ。
普通のプレーは見ればすぐにできるのに、この人のは何度やってもできなかった。けど、わかってたんだ、ほんとは、なぜできないか。
憧れてしまえば越えられない。
勝ちたいと思いつつ、心の底では負けてほしくないとねがうから……。
だから……憧れるのは、もう……やめる。
と述べる。
青峰は、ある種黄瀬にとっての神だったのだろう。彼は青峰のプレーを見てバスケ部に入り、毎日のように1on1を挑み、その全てに敗れた。そこには強烈な憧れや畏敬と、自分を退屈な毎日から救い出してくれたものへの感謝があったのではないか。だからこそ、黄瀬が初めてキセキの世代の技をコピーするのは青峰戦でなければならなかった。己の神を殺すことで初めて彼は、模倣を個性に偽物を本物と同格にまで押し上げるチャンスを掴んだのだ。
黄瀬は結果試合には敗れるものの、青峰のパーフェクトコピーを行って彼と並び立つ存在となる。その後も黄瀬の躍進は続き、ウィンターカップ時点においては全てのキセキの技を模倣ししかもそれを組み合わせての運用を可能にした。
偽物は圧倒的な「本物」には敵わない。でも模倣を突き詰めればそれは一つの真の個性となる。その個性によりなされたコピーは原典に追いつき得るし、様々な人の模倣を組み合わせれば所有主を凌駕することだって出来る。
この「偽物も突き詰めれば本物となる」というのが黄瀬を通じて語られた黒子のバスケにおける本物/偽物論だ。
偽物が本物に敵わないなんて道理はない
これと似て非なる理論を持つ世界がFateだ。
Fateの世界観が明確に定めた一つの主題が偽物の肯定だ。その世界観を体現しているのが衛宮士郎だ。Fate/staynight UBWにおいての聖杯戦争終盤、かの世界史に名高い英雄王ギルガメッシュとの対戦を迎える。彼はありとあらゆる伝説の原典となった宝具を己の財宝庫から自在に取り出し行使できる、まさに本物中の本物だ。対する士郎は剣を構成するあらゆる要素を内包した固有結界「無限の剣製」で立ち向かう。その際彼がギルガメッシュに投げかけたセリフがこれだ。
驚くことじゃない、これらは全て偽物だ。
だがな、偽物が本物に敵わない道理なんてない。
お前が本物だというのなら、悉くを凌駕してその存在を叩き堕とそう。
いくぞ英雄王、武器の貯蔵は十分か?

「贋作が本物に劣ると誰が決めたのか」これはFate世界で度々主題となる価値観であり、私自身も強く心に刻んでいる考え方だ。そもそもすべての原典を保有する英雄王ギルガメッシュに模倣に特化した士郎が勝つということ自体がこの価値観の証明と言えるだろう。
黒子のバスケの世界において「偽物も突き詰めれば本物となる」が物語を通じ示された一方で、Fateにおいては「偽物は偽物のままで本物に勝利しうる」ということが語られた。
偽物本物論争
ただ偽物/本物論争というのは考えるだけ不毛なのかもしれない。この世に偽物も本物もなくあるのはただ「もの」だけとも考えられるのだ。そもそも「本物」は誰かにそう規定され、それが大衆に受け入れられることで成立しているだけので根元的な違いは本当にあるのだろうか。とはいえ人はブランド品から志、人間自体についてまで常に真贋を判定したがる生き物だ。私自身も自分自身の将来の夢について偽物ではないかと悩んだ時期がある。
だからこそ少年漫画は「偽物と本物」の二項対立をテーマとし続けるのだろう。「型破りになるためにはまずは型を身につけなければならない」というのはよく言われることだが真理だと思う。何者かになるためには誰しも模倣を通らねばならなず、それは当然恥ずべきことではない。そしていつか本物と対決する時が来たならば、その時こそが型を破る時だ。 そんな勝負の時に黄瀬や士郎の心意気はきっと背中を押してくれる。