ユーリ・プリセツキー:史上最高の天才の証明

脇役の悲哀と過小評価

 ユーリ・プリセツキーは天才だ。だがGPFのフリーを滑り終えるまで彼の勝利を予想していた人は本当に少なかったと思う。物語の主役はどう見てもユウリ・カツキだったから。

 スポーツ漫画を読む際に最も絶望が深いことの一つは、間違いなくライバル校や脇役を好きになってしまうことだろう。いかに強豪であろうともいかに天才であろうとも、物語の主役であるという力にだけはどうにも叶わないのだから。 主人公の学校とのブロックが遠くなることを祈るのみだ。だが主人公との対戦がなければ物語が描かれることもない。この残酷な二択の間での葛藤を強いられる。

 だからこそユーリ・プリセツキーを好きになった時は「ああまたか」と仄暗い気持ちになったし、ショートプログラムで歴代最高得点を出した時も敗北フラグかという疑念がよぎった。だがユーリは勝利した。それが勇利に現役続行させるための脚本と言われればそれまでだけれど、彼の勝利にはきっと意味がある。私達はずっとユーリ・プリセツキーを過小評価してきたのではないか。

 

ヴィクトルを超える器

1. 表現姿勢

 ユーリは実はヴィクトルを超える器なのではないだろうか。例えば表現に向き合う姿勢にその片鱗が見られた。3話途中、長谷津でユーリがヴィクトルと共に練習していた時、苦戦する彼がヴィクトルに「ヴィクトルにとってのアガペーとは何か?」と問いかける場面がある。その時のヴィクトルの回答は

そんなのフィーリングなんだから言語化できるわけないだろ?

いちいちそんなこと考えながら滑ってるのか?おかしな奴だなユリオは。

 というものだった。当時そのセリフは、いかにヴィクトルが才能に恵まれているかを表すものだった。でも本当にそうなのだろうか。二つのL、LifeとLoveを置き去りにして競技に打ち込んできた彼には本当の愛は分かっていなかっただろう。一方ユーリはシニアデビューの年、しっかりと愛と向かい合いその入り口に立った。高く評価されて然るべきだろう。

 またGPFのショートプログラム中、ヤコフが滑るユーリの姿を長髪時代のヴィクトルと重ね、「ヴィーチャ」とつぶやくという非常に象徴的な場面があった。ここからユーリはある種最強だった時代のヴィクトルに追いついたと解釈して良いと思う。点数の面ではまだ発展途上であったかもしれないが、音楽を感じて自分が楽しくて仕方ないスケートをただ無心に滑る境地。2話で、ユーリが思い悩むヴィクトルの滑りを見て「自分についてイマジネーションが湧かないなんて、死んでいるのと一緒」という場面があった。どうやって驚かせようかと悩むようではダメなのだ。どうやって新しいものを生み出そうか苦悩する必要もなく、ただ無心で滑ることが皆を驚かせるような演技につながる。そういったいわば最強の境地にユーリが至っていたことは、今までと違い演技中にユーリのモノローグがなく、演技終了後彼自身が頭が真っ白だったと述べることからも推察される。

2. 戦績


 功績的にも同じことが言える。思えば第7話の頃まで、ユーリの才能の大きさを見くびっていた。彼は早生まれだから13、14、15歳で史上初の世界ジュニア3連覇を成し遂げ、15歳9ヶ月でシニアのグランプリファイナルを制している。一方ヴィクトルは16歳で世界ジュニア優勝。加えてユーリのシニアデビューイヤーでのGPF優勝自体が史上初とのことなので、ヴィクトルは恐らく16歳でシニアデビューして(12月25生まれ)優勝できなかったということ。つまりユーリはあくまで現時点においてだが、実績的にも彼を完璧に凌駕しているのだ。ちなみに15歳9ヶ月でのGPF優勝という史上最年少優勝記録は、テクニカルな限界にかなり肉薄しているものでユーリの才能の大きさを感じさせる。

(注)シニアのGPSの要件はその歳の6月30日に15歳になっていること。つまり原理上最年少は(学年が一つ下の)6月生まれで15歳6ヶ月。

 

花開くダイヤモンド 

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グランプリシリーズ、ロステレコム杯でのユーリに向けられた実況。「本当に素晴らしい才能です!ロシアのユーリ・プリセツキー!」何気ない台詞なのに思わず泣きそうになった。

ここまで述べてきたようにユーリの才能は計り知れないほど大きい。ヴィクトル・ニキフォロフの後継者に全く不足はないことはおろか、15歳という年齢も鑑みればほぼ間違いなく彼は次のLiving Legendになれるだろう。もちろん成長期は彼にも訪れるし大きくなる体を持て余しジャンプに苦しむ時期もあるだろう。彼自身が「この用紙で居られる時間は短い」と述べたように、時間の流れは時にひどく残酷だ。それでも彼はヴィクトルにはなかった4つのLを全て持っている。

神は乗り越えられる試練しか与えない。彼の未来に幸あれかし。

 

 

Yuri on Iceにおける神殺し。神は死んだら何になる?

神から人へ

 Yuri on Iceは愛の物語であるとともに、神が一人の人間へと戻っていく過程と言えるだろう。その過程の視聴者への伝え方を、主人公である勇利の気づきとリンクさせているのが良い。

 冒頭生ける伝説として登場するヴィクトルはまさに完全無欠の神様として描写される。そもそも名前もvitor+yだしニキフォロフNIKEを含んでいて二重に勝利を運命付けられたキャラクター。だからこそヴィクトルが銀髪でユリオが金髪なのはちょっと意外。多くの人が彼を金メダルの擬人化だって言ってたし、それにはかなり信憑性があるように感じられるから。前髪を長く垂らしてるのも「勝利の女神には前髪しかない」を彷彿とさせるよね。ヴィクトルはハゲちゃうの気にしてるけど笑 

 

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 最初、勇利にとってのヴィクトルは自分の眼の前に突如現れた信仰する神様。しかし一緒に練習する中勇利はいくつもの発見を通じて彼が人間であるということに気づく。つむじを押されるのを嫌がるところや、自分より体力がないところ。どれも本当に「人」らしい。だからこそ勇利はラストシーズンに懸けている自身だけでなく、ヴィクトルの時間もまた有限なことを認識して、彼ではない神に「ヴィクトルの時間を僕にください」と祈るのだ。この時点でヴィクトルは唯一神ではなく「ヴィクトルはヴィクトルでいてください」と勇利が海岸で言ったように一人の人間となった。

 加えて11話では未だ神としてのヴィクトルに縛られていたユーリ・プリセツキーも神殺しをする。

「ヴィクトル・ニキフォロフは死んだ。」

「うぬぼれんな。スケーターがみんなヴィクトルに憧れてると思うな、さっさといなくなれ、じじい!」

まさに神としてのヴィクトルの死と、この世界のフィギュアスケートにおける唯一神であったヴィクトルへの憧れの否定。己には己が目指すものがあるという宣言はヴィクトルが人となっていく過程での重要な台詞だ。

 

ヴィクトルの未熟さ

 ヴィクトルはこうして人となったが、勇利のヴィクトル像はさらに変化を続ける。転機となるのは中国大会。メンタル崩壊寸前の勇利に対してヴィクトルはなんと「泣かれるのは苦手。キスでもすればいいのか。」とかのたまう。しかもキメ顔で。他のコーチ達の熟練の対応と落ち着いた様子と対比するようにヴィクトルの未熟さが示される。そうヴィクトルは案外未熟で子供なのだ。至上の天才かつ超美形であるが故に無邪気な子供のままで生きることをずっと許されてきたヴィクトルは、教え子の不安一つなだめる事が出来ない。

 おそらく彼のこれまでの恋は2話で勇利が想像したErosの物語と大差ないものだったのだろう。町中の娘を夢中にする残酷な世紀の色男。これは長く苦杯をなめてきた勇利や、無様でも恋人であるアーニャへの思いを演技の糧として昇華したギオルギーとは対照的。だからこそヴィクトルはきっと選手としてもまだまだ成長できるのではないだろうか。人となったヴィクトルの演技の幅は大きく広がるだろうから。

 そして少し話がそれるがこの直後の勇利のセリフ

「黙ってていいから、離れずにそばにいてよ!」

は最高のフラグ回収で鳥肌がたった。しかも二人がラブホから出てきたカップルみたいな雰囲気でこの後帰ってくるときに流れている曲は、ギオルギーの Tale of sleeping prince! しかも歌詞が” I’ll that I’ll save you”とかだし。

 

信頼できない語り手

 そして勇利のヴィクトル観に乗っかって物語を進んできた、私達視聴者に衝撃を与えたのが10話のラスト、前年度のバンケットで酔った勇利がヴィクトルにコーチを持ちかけるシーン。「信頼できない語り手」勇利を最大限生かした脚本には脱帽。語り手としての勇利が信頼できないことは、一話のはじめの「どこにでもいる普通の特別強化選手」(そんな訳ない)でわかってたけど、まさかコーチを依頼してあんなに仲良く踊ったことを有利が酒のせいで忘れているなんて!カメラロールを見せるような演出のエンディングと共に本当に圧倒された。

 YOIの世界は実はそんなに荒唐無稽ではない。100%これはありえないということはそんなにないのだ。10話放映より前に、何もかもが全くありえなくはない設定の中でヴィクトルが長谷津にやってきたことだけが奇跡と言った方がいた気がする。まさにその通り。ただヴィクトルが来たことに勇利の勧誘という明白な原因がある。アニメに描写された春の雪ののような儚い奇跡ではない。全てが解き明かされたわけだ。本当にすごい。つまりここで物語は大きく転換する。町一番の美女勇利が色男ヴィクトルを誘惑するんじゃなくて、色男勇利が町(世界)一番の美女ヴィクトルを口説いてたってことだよね。ひっくり返されたなあ。見事。だからこそ二人が出会いのバンケットで闘牛を模したパソドブレを踊ってるのは最高。自分の前に突然現れた神様、勝利の化身は勇利自らがつかみ取ったものだったのだ。

 

+a 不完全に宿る美

 ところでニキフォロフの名に含まれる勝利の女神ニケといえば、サモトラケのニケが有名。そしてサモトラケのニケはまさに不完全性や欠落が画竜点睛的に美の実現に機能している世界で最も有名な例の一つだよね。Living legendであるヴィクトルは常に完璧を実現してしまうから、こういう不完全に宿る美は一見苦手分野に思える。しかし彼にも欠落があったことが終盤明かされる。Living Legendという二つのLのためにLife, Loveという二つのLを捨てていた。私達が完全な日と信じ込んでいたものは、実は不完全ゆえの美だったわけだ。うまいなあ。

 

及川徹の才能開花:秀才の壁をぶち破れ

天才と秀才

ハイキューの世界は厳しく残酷だ。多くのスポーツ漫画において「天才と秀才」は永遠のテーマだが、ハイキューでもこの境目は多くのドラマを巻き起こす。

作中一貫して及川は典型的な「秀才」として描かれる。対となるのは天才影山であり、青葉城西という学校自体が「秀才」という役割を負わされている。ただしここで重要なのは、天才か否という問題自体よりも及川自身が自分を天才ではないと断じてしまっている事だ。

 

この思い込みの重要性は17巻、二度目の烏野VS青葉城西のラストに如実に現れる。

試合終盤及川は一人

「才能の開花のチャンスを掴むのは今日かも知れない」
「もしくは明日か、明後日か、来年か、30歳になってからかもな。体格ばかりはなんともいえないけれど、何と思ってたら一生ないんだ」

と呟く。これまで天才を憎みその力をバネとして努力してきた彼の内面の決定的変化を読み取らせる台詞だ。そして試合のクライマックス。レシーブが乱され飛んで行ったボールを全力で追いかけての超ロングトス。ここでのモノローグが

「才能は開花させるもの、センスは磨くもの!」 

アニメだと、ここで及川さんが最高のトスを上げた後にスマートに立ってコートに走るんじゃなくて、一回ずるって転んでイケメン台無しの形相で、でも最高に楽しいって顔で立ち上がるのが本当に彼らしくて素晴らしい演出。

きっと及川の才能はこの時点で二度目の烏野戦の最後の1ポイントでやっと開花したのだろう。これは彼が開花を信じ始めたからこそ実現した事だと思う。そしてそのトスを受けたのはやっぱり相棒の岩泉だった。彼らは結局その後敗北するのだが物語はそこでは終わらない。幼い頃からずっとトスを受けてきた岩泉は、及川の最後のトスのこれまでとの違いに如実に気づいたのではないだろうか。

 岩泉の祝福

及川がやっと殻を破った事や、今や及川は遥か高みまで飛んでいける翼を手に入れた事も。だから彼は帰り道及川に生涯に渡る呪いをかけた。呪いという名の大いなる祝福を。

岩泉が自分を見限ったわけじゃない。ただそれでも及川は羽ばたいていかなきゃいけない。自分の「自慢のすっげーセッター」だからこそ。ただただ尊い

お前は多分じいさんになるくらいまで幸せになれない。

たとえどんな大会で勝っても完璧に満足なんてできずに一生バレーを追っかけて生きていく。

めんどくせえ奴だからな。でも迷わず進めよ

 

そして彼の才能開花においてもう一人非常に重要なのが、大学のスカウトだかコーチだかであろう不明人物が告げた言葉だ。

自分より優れた何かを持っている人間は生まれた時点で自分とは違っている。それを覆すことなど、どんな努力、工夫、仲間をもってしても不可能だ。

そう嘆くのは全ての正しい努力をしてからで遅くない。
自分は天才とは違うからと嘆き、諦めることより、自分の力はこんなものではないと信じて、ひたすらに真っ直ぐに道をすすんでいくことは

辛く苦しい道であるかもしれないけれど。

それにしてもこの人物の影響力は凄まじい。

これまで好人物である事が度々描かれた青葉城西の監督ですら、及川を高く評価しつつも「及川徹は天才ではない。」と断言してしまっていた。正直この監督の台詞を読んだ時は、自分も天才ですらない監督に他人の才能の有無が判じ切れるのだろうかという疑問を抱いた。だからこそ今回の才能開花は本当に嬉しい。

人は自分が変われると信じなければ変われない。及川は白鳥沢に入学していたら、きっと全国優勝とか凄い実績を残せたのだろう。牛島のセッターとして。でもそれではきっと及川自身才能開花はなかった。物凄く上手な秀才止まりだったと思う。天才と死ぬ気で戦って負けて負けて負け続けた3年間。どうやったら勝てるのか、どうやったらチームの力を120%に出来るのかを死に物狂いで考えた3年間こそが及川の才能開花の下地になった。

青葉城西は最強じゃなかったけど、最高のチームだった。

 

+αでの想像

この才能開花は及川の将来を大きく変えたのではないだろうか。岩泉の呪い「一生バレーを追いかけて生きていく」という祝福も合わせてメタ的に考えると、及川は将来日本代表、それに準ずる立場で活躍できると思う。及川のバレーが続いていくフラグは牛若への敗戦後の

俺は自分の選択が間違いだと思った事は一度も無いし

俺のバレーは何一つ終わっていない

取るに足らないこのプライド、絶対に覚えておけよ 

 というセリフの時点で決定づけられてるし。

でも何よりも岩泉の言葉によって及川のバレー人生が続いていくことが暗示されたことが本当に嬉しかった。実のところ今回の予選で及川さんは怪我が悪化&バレーは終わりという展開も全くありえないわけではないかなってずっと不安だった。膝のサポーターの色が左右で違ってたことも含め怪我説は結構提唱されていた。だからこそ岩ちゃんの呪いは本当に嬉しかった。最高の祝福だった。ありがとう。

それからもし、及川に天が与えた才能が眠ってるってことに気づいてたのが牛島と影山だけだったとしたらすごく萌えるし燃える。才能は同じものを持つ天才にしか見抜けない可能性だってあるのではないだろうか。だからこそ影山と牛島は及川に執着していた。なんてことあったらいいな。